2017年10月1日日曜日

知識人とは何か


 1993年に英国BBCで放送されたパレスチナ出身の文学者の講演集。原著の出版は1994年。天童荒太と坂本龍一の対談の本で存在を知り、伊藤計劃の日記で言及されていたので読み始めた。

 これは今まで自分の中で漠然と考えていた「自分のあるべき姿」を筋道立てて説明し、その正当性を保証してくれる内容だった。人生の書にしたいくらいだ。今後も繰り返し読むだろう。

 内容はまさに題の通り「知識人とはどうあるべきか」の本である。一言でいうと「たとえ空気が悪くなっても、言うべきことを言う勇気を持てよ」って感じだろうか。嫌われても、疎まれても。辛くても、寂しくても。組織を追われ、汚名を着せられ、いなかったことにされ、触れてはいけない人になってしまうこともあるかもしれない。それでも、その生き方には意味があり、世界にいい影響を与える手段である。自分が密かに抱いていた理想の生き方をcheer upしてくれた1冊である。

・・・

 知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。(p20)
 このようないとなみを成功させるには、劇的なもの、反抗的なものに敏感に反応するような感性を養い、ただでさえすくない発言の機会を最大限利用し、聴衆の注意を一身にひきつけ、機知とユーモア、それに論争術で敵対者を凌駕するよう心がけねばならない。(p23) 

 知識人というものは、複数の異なる規範にのっとって生活するがゆえに、物語をもたないが、ただ、なにかをゆるがす効果を発散させるのだとおもんぱかることができる。知識人は地殻変動のようなものをひきおこす。人びとに衝撃をあたえる。だが知識人は、その背景を考慮しても、また友人たちをとおしても、理解することはできない。(p89)
 

 亡命者とは、知識人にとってのモデルである。…(中略)…。おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである。
 周辺性という状態は、無責任で軽佻浮薄なものとみられがちだが、しかし周辺性はまた、ふだんの生活や仕事において、たえず他人の顔色をうかがいながらことをすすめたり和を乱さないかと心配したり同じ集団の仲間に迷惑をかけないよう気を配る生きかたから、あなた自身を解放してくれる。(p109) 

 わたしがいいたいのは、知識人が、現実の亡命者と同じように、あくまでも周辺的な存在でありつづけ飼い馴らされないでいるということは、とりもなおさず知識人が君主よりも旅人の声に鋭敏に耳を傾けることであり、慣習的なものより一時的であやういものに鋭敏に反応することであり、上から権威づけられてあたえられた現状よりも、革新と実験のほうに心をひらくことなのだ。漂泊の知識人が反応するのは、因習的なもののロジックではなくて、果敢に試みること、変化を代表すること、動きつづけること、けっして立ち止まらないことなのである。(p110)   


0 件のコメント:

コメントを投稿

ブログ アーカイブ