哲学者、評論家、小説家、カフェ経営者である東浩紀の2001年発行の新書。哲学者の視点で当時の現代社会を批評。
ポストモダンとはざっくり言うと「1970年代以降の文化的世界」。1970年~1990年くらいの世の中の思想のトレンド、くらいに言ってしまうとわかりやすい。で、日本のオタク(1970年~2000年くらいのガンダム、萌えアニメ、エヴァンゲリオンが好きで同人誌やフィギュアを買うために秋葉原やコミケに集うチェックシャツ&ジーンズの男たち)の存在はポストモダンの構造が凝縮されている、というのが本書の主意。そして、彼らが動物化している、という主張。
動物化とは、哲学者コジェーブの提唱する概念を借りてきている。他者を介在せずに「各人がそれぞれ欠乏-満足の回路を閉じてしまう状態の到来」ということ。食べ物もセックスも音楽も映画も悪口もインターネットで手軽に済ませる、人と関わらずパソコンとスマートフォンで欲望はサクサク解消できる、そんな人が増えている、という状態。まあ間違いなくそうなっているのに異論はないだろう。オタクというか、世界中の皆。
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「オタクたちが趣味の共同体に閉じこもるのは、彼らが社会性を拒否しているからではなく、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られているからなのだ」(p43~p44)
「近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た七〇年代に加速した。オタクたちが出現したのは、まさにその時期である。そのような視点で見ると、ジャンクなサブカルチャーを材料として神経症的に「自我の殻」を作り上げるオタクたちの振る舞いは、まさに、大きな物語の失墜を背景として、その空白を埋めるために登場した行動様式であることがよく分かる。」(p44~p45)
「近代からポストモダンへの流れのなかで、私たちの世界像は、物語的で映画的な世界視線によって支えられるものから、データベース的でインターフェイス的な検索エンジンによって読み込まれるものへと大きく変動している。その変動のなかで日本のオタクたちは、七〇年代に大きな物語を失い、八〇年代にその失われた大きな物語を捏造する段階(物語消費)を迎え、続く九〇年代、その捏造の必要性すら放棄し、単純にデータベースを欲望する段階(データベース消費)を迎えた。」(p78)
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文科系の人同士の会話ではマウンティングの応酬がある。そんなとき「ああ、ちょっと彼、ポストモダンっぽいところあるよね」と言えるようになる。そんな本である。