京極夏彦マジでやべえな、、、と読みながら思った姑獲鳥の夏に続く百鬼夜行シリーズ2作目。
バラバラ殺人、密室での被害者消失、新興宗教や奇妙な研究所で起きた事件が複雑に絡み合う重層的な構造であり、刑事、探偵、文士、そして博覧強記の古本屋『京極堂』らお馴染みのメンバーらの人間模様も味わえる贅沢な作り。そして、その一つ一つの構成要素が蠱惑的な上に、全体として精緻に組み合わさったミステリ小説として完成しており、読んでいてぐいぐい引き込まれる。文庫版の解説にもある通り、娯楽作品として圧倒的に豊穰なのである。
文庫本で1050ページの重厚な長編作品だが、読んでいてずっと熱中していた。グロテスクな嗜虐性、知的興奮、謎解きの興趣、悲恋や喪失のヒューマンドラマ、全てが同時に楽しめる。オカルト全般や犯罪の動機などに関する京極堂の考察も示唆に富んでいる。
是非、シリーズの続きが読みたい。
インドの偉人マハトマ・ガンジーの伝記映画。
史実を忠実に再現しようという試みであり、余計な演出を排しているあたりソダーバーグのゲバラの映画に雰囲気が近い。主人公は多くを語らず、高邁な理想に基づく行動と立ち居振る舞いには威厳が漂う。
容姿がガンジーに似ているベン・キングズレーがアカデミー主演男優賞を受賞している他、1982年の作品賞などを受賞している。190分の長尺で、観ているうちに既視感が生じる冗長ともとれる展開は、人物ガンジーに特別な思い入れがある人でなければ途中で飽きがくるかもしれない。映画は途中でintermission(休憩時間)が入る。
とは言え、ガンジーが提唱する信念「非暴力・不服従」やサチャグラハ(真実の把握)には普遍の価値がある。自由を手に入れるための闘争の段階で、その先を見据えた慧眼と、遂行するための覚悟。歴史上で不滅の輝きを放った魂へのリスペクトに満ちた映画である。
グラップラー刃牙の続編。世界中で同時多発的に脱走した死刑囚達が東京に集い、刃牙ら地下トーナメントの激戦を戦い抜いた猛者たちと戦うことになる。全31巻。
過剰な表現が多くツッコミどころは多々あるが、そこにツッコむのは無粋。基本的には娯楽漫画であり、「強さとは何か」という求道を通して描く哲学的な漫画である。「地上最強の生物」範馬勇次郎はメルビルの長編小説『白鯨』におけるモビー・ディックみたいなものなのである。刃牙が梢江の女性性というファクターにより強さを手に入れるのは作者のヒューマニズムの残滓だろうか。
そして、そこはかとない作者の愛国心を感じる。日本人が非常に強い。
リチャード・ギア扮する弁護士が大司教が惨殺された現場に居合わせた青年の無実を証明するために頑張る話。
吃りがちで神経症的な雰囲気の漂う容疑者の青年役は若き時分のエドワード・ノートン。『ファイトクラブ』や『アメリカンヒストリーX』でも見られる人格の二面性を表現する演技をさせれば定評があるが、この映画のせいでそういうオファーが殺到するようになったのかもしれない。
1996年の映画だが、『羊たちの沈黙』や『FBI心理分析官』など、行動科学理論を用いたプロファイリングのブームがあった80年代~90年代前半以降の作品であるというのがポイント。性的な心的外傷体験と猟奇犯罪の関連の指摘は一過性の流行だったと筆者は個人的に考えている。あと、精神医学が絡む法廷でのやり取りには個人的に突っ込みどころが多い。
というわけで、まあまあな作品。
昭和20年代日本。30年近く無欠勤で務めた市役所の課長が胃癌で己の余命が半年だと知り、生きるということについて考え直す。黒澤明監督のヒューマン映画。
15年くらい前の草彅剛主演のドラマ『僕の生きる道』を思い出した。死に直面して生を問い直すというテーマの定型を作ったオリジナルなのかもしれない。生きながらにして死んでいるような、普段は気付かずないがしろにしがちな生きている時間や命の価値を何のために使うか。実存主義的な主題が平易に表現されている。
DVDで観たが音声が古く日本語が聞き取りづらかったのが惜しい。
とは言え、主人公の圧倒的な口下手さと小市民な生活感のリアリティが胸を打つ。
口をついて出る「いのち短し恋せよ乙女」のゴンドラの唄が悲しい。
いい話だ。
西暦2028年、月面探査で宇宙服を着た5万年前のヒト型生物の死体が発見され世界中の科学者に衝撃が走った、、、という冒頭から始まる1970年代のハードSF。巨匠ジェイムズ・P・ホーガンの出世作。
舞台はSFだが、内容は巨大な謎に立ち向かうミステリ。主人公のスーパー頭がいい原子物理学者が生物学者、化学者、数学者、言語学者、宇宙航空局など人類最高峰の頭脳達と協力して、史上最大の難問の解明に挑む。流暢に流れる衒学的な議論が読んでいて楽しい。この論理とリズムが楽しめない非理系の読者にはハードルが高いかもしれない。
古典SFの傑作として抑えておくべき作品である。
プラネテスといい、さよならジュピターといい、木星がSFの名所なのは何故なのか。
その説明が、今後の筆者の課題である。
少年時代の友人だった3人の男の物語。
若い女性の殺人事件の捜査を機に、かつて誘拐事件に物語に巻き込まれた3人が再会する。
監督クリント・イーストウッドが作曲したBGMと灰色にくすんだ映像が生み出す全編を覆うもの悲しいトーン。題にもなっているボストンに流れる川は、喪失や悲しみや痛みが連鎖し、影響し合って世代を紡ぐ人の世の隠喩になっている。
観賞後、重く腹に残る悲しみとささやかな救いがある。
ショーン・ペンの侠気と脆弱さが同居した佇まいが味わい深い。
偏執的な性愛を描く谷崎潤一郎の掌編小説。
大阪の薬屋の盲の令嬢の春琴と、その丁稚(付き人)の佐助。佐助は主人である春琴の美貌、立ち居振る舞い、三味線のの技術など彼女を構成する全ての要素が宿した美に陶酔していた。食事や移動の手伝いから入浴や排泄の介助まで、一心に、疑うことなく、献身的にその全瞬間を捧げ尽くす。そこに後悔や疑念は微塵も感じられない。そんな狂気の生涯には普遍の美しさが宿る。
猥雑さと官能が同居し、退廃と嗜虐が美を殊更に引き立てる。これが耽美主義。
アメリカに黒人奴隷制度があった19世紀の南北戦争前の話。
2014年アカデミー作品賞受賞作品。実話に基づいているそう。
聡明で品位のある黒人が奴隷として売られ、12年間ただひたすら理不尽に耐える。観ると白人への憎悪が生まれる。何故、人が人にこんな酷いことができるのだろうと。
中国や韓国の反日映画は同様の手法を使って日本人への憎しみを搔き立てるんだろうな、と観ている途中何度か思った。監督スティーブ・マックイーンらにより歴史の暗部に向き合わなければならないという使命感に燃えて撮られた作品だが、観る側にリテラシーがなければ、歴史的文脈や人道的な見地とは縁遠い表層的な陰性感情が残るだけだろう。
余計なBGMや映像的技巧を排した作風に作り手の誠実さを感じる。
観ながら考え事をするための余白がある映画。