物語とは、人と人が時間や空間を越えてつながるための手段です。
冲方丁
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ナラティブ・ベースド・メディスンという言葉がある。
英語表記はnarrative based medicineで、「個人の物語に基づいた医療」という感じで訳されることが多い。片仮名で表現される「ナラティブ」という言葉は、精神科医療においては1960年代から使われるようになったらしく、個人に固有の物語性にフォーカスした診療アプローチの様式を指すことが多いようだ。患者の身体所見と検査データだけを見て文献的な知識を機械的に当てはめていく診療をするんじゃなくて、一人の人間としての物語を尊重しろよ、というニュアンスである。データじゃなくて人を見ろや、と。
そんな語をタイトルに持つこのブログに、年に一度書いているこのような文章のために『ナラティブとエビデンスの間』(James P Meza, Daniel S Passerman 著、岩田健太郎 訳)というエッセイ的な学術書を読んでみたのだが、これがまた面白くない。優秀な学者が書いていると思われ、学問にも患者にも真摯であろうという姿勢が伝わってくる好著だという気もするが、面白くはない。そのせいか頭に内容が残る気がせず、「医学の教科書でナラティブを理解するのなんて全然無理筋じゃねーか」と思ったので、このブログの存在意義を再度噛み締めることになった。
同じニュースを見ても、同じ病気になっても、感じ方は人それぞれ違う。体験の様式は、その人に固有のものであり、他人がその生理感覚を100%共有することは難しい。男が女の気持ちを理解することは難しく、日本人が中国人の感覚を理解することは難しい。幼稚園の先生が覚醒剤の売人のメンタリティを理解することは難しく、小学生の男の子が認知症のおばあちゃんの心境を理解するのは難しい。
背の低い男の人生、背の高い女の人生、知的発達が遅れたもの、優れたもの、アトピーに悩むもの、四肢が麻痺したもの、愛情に恵まれたもの、虐待を受けたもの、家が火事になったもの、親の財産で遊んでるもの、サボった人、頑張った人、人気者だった人、覚えてもらえなかった人、目を逸らしたくなる挫折、中学時代の栄光、不登校、大麻の使用、家族の失踪、劇的な恋愛、多重債務、精神疾患、地元の名士、蕎麦屋の跡継ぎ、病院の事務職員、宇宙飛行士、内閣総理大臣、郵便局員、YouTuber、テロリスト、プロ野球チームの2軍のレフト、一発屋の芸人、妊娠中絶をした女、HIVに感染した男、交通事故の加害者、東京でデビューした大学生、メキシコの語学学校に通う看護師、在日韓国人、引きこもり10年目の長男、カミングアウトできない同性愛者、人肉を食べたい掃除夫、出会い系にハマる人妻、バーのマスター、盲導犬のブリーダー、熊専門のハンター…。
個人の体験には限界があり、他人の人生を完全に理解することはできない。
しかし、漸近はできる。
物語を通して、擬似的に他者の物語を体験することで、その視点、痛み、歓び、質感を部分的には感得することはできる。語られた物語を想像のよすがとすることで、他人の精神活動の実体に近づいていくことはできる。彼は、彼女は、この世に生を受けてから、自分の目の前に現れるまで、どんな道を通って、何を見て、何を感じ、今日の日まで生きてきたのか。何を想い、何を求め、何にこだわって生きているのか。何に憤り、何を悲しみ、何を諦めたのか。100%完全な理解などありえなくても、物語を読み解き、想像を重ねることで、その体験に近づいていくことはできる。
いい漫画を愛したり、朝の連続テレビ小説をかかさず観たり、映画を沢山観る人は「わかってる」。良質な物語を享受する人は不特定多数の人生に必要なものを、社会生活における大切なものを、間接的に理解しているように思う。
良質な物語を読めば、人の気持ちがわかる。
良質な物語を読めば、逆境に強くなる。
良質な物語があれば、人生は楽しい。
物語を読む経験。物語を書く練習。物語のあるカフェを経営する準備。
10年続けたら実現できるかな、という試みがこのブログである。
自分のために続けているものではあるが、自分以外の誰かに価値あるものを提供できるような気もする。
そんなわけで、まだ続きます。
少なくともあと5年。