2016年10月27日木曜日

十二人の死にたい子どもたち


 冲方丁、初の現代もの。インターネットを介して知り合った自殺願望を持つ10代の少年少女が廃院となった病院に集まって…という話。

 基本的には閉鎖空間での心理戦とミステリー。詳細な情景描写と視点の入れ替わる3人称で、組み木細工のように緻密なプロットが構築されている。登場人物はいろんなタイプの「自殺を考える若者」像が描かれていて、とりわけ1番サトシ、6番メイコ、7番アンリの造型が見事。こういう人いるよね、っていう空虚で邪悪な人の描写にリアリティがある。

 筆者が熱心な冲方ファンというバイアスがあるとはいえ、楽しく読めて読後感も良好だった。マルドゥックスクランブルのカジノ然り、こういう頭脳戦はいいね。
      

2016年10月23日日曜日

野火


 第二次大戦末期、フィリピンのレイテ島をさまようことになった日本兵の話。

 肺病のために部隊を放逐され、多くの死体が転がる熱帯のジャングルの中で飢餓、不衛生、疲労、孤独、死の危険などが生み出す極限状況の人間心理が描かれる。畑で盗んだ芋やヒトの血を吸う蛭を食べ、最終的には死んだ人間の肉を食べるかで迷う。道徳も信念も失われ、他人の目もない世界で、ギリギリまで追い詰められた人間はどうなるか…という世界の話。

 元の題は『狂人日記』だったそうだが、昭和の小説家は精神疾患や精神病院に神聖なファンタジーを抱きがちなので、その辺は筆者の趣味に合わず。「狂人ってクール」っていうのは一過性の流行だったと筆者は個人的に思う。崇高な世界の真理は狂った人間に宿る、というは科学的知識の欠如が生み出す空虚な幻想である。

 というわけであまり心は動かなかったが、読んでおいて損はない作品である。作者大岡昇平によると主題は「敗兵に現れる思考、感情の混乱」だそう。極限状況の人間の描写は、かなり精度の高いものであるように思う。
   

こちら葛飾区亀有公園前派出所


 Kindleで最終巻の200巻を買って読んでみた。実家に住んでいた頃120巻くらいまでは買って読んでいたが、その後しばらくブランクがあってからの再読。最新刊の雰囲気はかつてと違うが、安定のクオリティで、結構面白かった。

 個人的には「こち亀に社会を学んだ人」っていうのが一定数いると思うので、そこに思いを馳せる。筆者の少年時代は親から子への情報伝達の場としての家庭が機能していなかったため、テレビや周囲の大人に学べない流行や常識の大部分はこち亀に学んだ。とりわけ、90年代の文化については結構なボリュームで両津と共に学んだ。この感覚、分かる人いないだろうか? 70年代~2010年代の各時代の日本の文化が詰まった歴史的資料になっているという意味で、単なるギャグ漫画として以上に存在価値は大きい。

 そして、両津勘吉は作者秋本治のオルター・エゴであるということ。冨樫義博にとっての『レベルE』の王子みたいに、井上武彦にとっての流川や桜木武蔵みたいに、控えめな現実の自分には成し得ない無茶苦茶を、変わりに成し遂げてくれる存在を創造する必然性があった。そして、それが多くの読者の共感を得たということ。石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』みたいに、流行ネタを何でもぶち込み、登場人物に私見を語らせる装置として機能していた点も大きい。ていうか、羨ましい。

 他、語りたいことがありすぎてまとまらないんだが、パッと思い出せる限り、カタ屋のゲーム、ボルボとシミュレーションする鬼が島攻略、あたりが最高に面白かった。30巻~90巻くらいが最も好きなゾーン。100巻以降の女ばっかりの世界にはあんまり愛着はないが、作者の人間性の変遷があったと思うと興味深い。年取ると己のエロに正直になるんだろう。それ以上でも以下でもあるまい。

 Kindleに全巻入れて持ち運べば一生楽しめそうなので検討中。
    

2016年10月10日月曜日

マルドゥック・ヴェロシティ [新装版]


 合本版を通読完了。オリジナル版と新装版の違いはよく分からんかった。

 『スクランブル』の敵役だったボイルドの過去の話。『スターウォーズ』でいうとエピソード1~3に相当。エリートの軍人だったボイルドがいかにして虚無へと堕落していったか、という軌跡を描く。

 読むのは2回目だったが、初回に読んだ時は生涯読んだ中で最もダークな気持ちになる本だった。全編を通して深く、重く、暗い。そして、グイグイ引き込まれる。何より、拷問を得意とするダークタウンの傭兵集団カトル・カールが怖すぎる。

 プロットが複雑だが、2回目に読むと以前より深く理解できた。大都市の闇を描くジェイムズ・エルロイ風のノワール+異能者集団の戦闘活劇を描く山田風太郎のエッセンス。そこに、ボイルド、ウフコックらの闘いが投影される。最強の知性と愛を持った道化クリストファーが断然格好いい。

 まあ、何も言わずに読んでほしい。そして、読んだ者同士で飲み屋で延々シリーズについて語り続けたい。筆者が最も好きな作品の一つである。特に「有用性」に関する議論は、社会人としての筆者自身のスタンスの根幹を形成しているように思う。

 そして『フラグメンツ』も読んだので、いよいよ完結編の『アノニマス』へ。
   

友情・初恋


 大正時代の白樺派、武者小路実篤の掌編2つ。

『友情』
 主人公の野島はキモいな、と思いながら読んでいたが、ラストで「大宮がやってくれた!」と野島の親友に対し心の中で快哉を叫んだ。なので読後感は良好。終盤の杉子(野島が惚れた女)の心情の描写がリアル。女ってこんなもんだよね、とすっきり腑に落ちる。夏目漱石『こころ』の進化版。ただし『こころ』の方が美しい。

『初恋』
 なんかもう、単純にキモい。作者の半自伝的な初恋の話らしい。ただ、そうした生理的嫌悪感は、かつて筆者自身が持っていた未成熟な理想像と重なるからでもあると思う。陰気で不器用な男が抱くファンタジーというか。誠実、道徳、人道、そういう幻想を拵えなければ自尊感情が保てないモテない男の心の仕組みが、自身の体験を通して透けて見えるというか。

 2編を通して、作者の育ちの良さゆえと思われるなんともいえない浅薄さが気になる。坂口安吾が嫌う路線だろう。モテない男が抱く純愛へのファンタジーというのは時代を超える。そして、あんまり美しいものじゃないと思う。
   

2016年10月2日日曜日

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会


 哲学者、評論家、小説家、カフェ経営者である東浩紀の2001年発行の新書。哲学者の視点で当時の現代社会を批評。

 ポストモダンとはざっくり言うと「1970年代以降の文化的世界」。1970年~1990年くらいの世の中の思想のトレンド、くらいに言ってしまうとわかりやすい。で、日本のオタク(1970年~2000年くらいのガンダム、萌えアニメ、エヴァンゲリオンが好きで同人誌やフィギュアを買うために秋葉原やコミケに集うチェックシャツ&ジーンズの男たち)の存在はポストモダンの構造が凝縮されている、というのが本書の主意。そして、彼らが動物化している、という主張。

 動物化とは、哲学者コジェーブの提唱する概念を借りてきている。他者を介在せずに「各人がそれぞれ欠乏-満足の回路を閉じてしまう状態の到来」ということ。食べ物もセックスも音楽も映画も悪口もインターネットで手軽に済ませる、人と関わらずパソコンとスマートフォンで欲望はサクサク解消できる、そんな人が増えている、という状態。まあ間違いなくそうなっているのに異論はないだろう。オタクというか、世界中の皆。


 「オタクたちが趣味の共同体に閉じこもるのは、彼らが社会性を拒否しているからではなく、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られているからなのだ」(p43~p44)

 「近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た七〇年代に加速した。オタクたちが出現したのは、まさにその時期である。そのような視点で見ると、ジャンクなサブカルチャーを材料として神経症的に「自我の殻」を作り上げるオタクたちの振る舞いは、まさに、大きな物語の失墜を背景として、その空白を埋めるために登場した行動様式であることがよく分かる。」(p44~p45)

  「近代からポストモダンへの流れのなかで、私たちの世界像は、物語的で映画的な世界視線によって支えられるものから、データベース的でインターフェイス的な検索エンジンによって読み込まれるものへと大きく変動している。その変動のなかで日本のオタクたちは、七〇年代に大きな物語を失い、八〇年代にその失われた大きな物語を捏造する段階(物語消費)を迎え、続く九〇年代、その捏造の必要性すら放棄し、単純にデータベースを欲望する段階(データベース消費)を迎えた。」(p78)


 文科系の人同士の会話ではマウンティングの応酬がある。そんなとき「ああ、ちょっと彼、ポストモダンっぽいところあるよね」と言えるようになる。そんな本である。