2021年7月21日水曜日

9年目

 

 先にあったことは、また後にもある。先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるだろうか。それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
伝道者の書 第1章9−10節

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 このブログを始めて、丸9年が経過した。
10年でいい区切りなので、1年後にはやめる予定である。公開はしばらく続けるかもしれないが、更新はしなくなると思われる。本を1冊読むたび、漫画を全巻読むたび、映画を1本観るたびに書くのは、結構な負荷ではあった。記事一つにつき書くのは大体30分もかからないが、それなりに脳と指先の筋肉を使った。習慣化するに至り、なかなかいいトレーニングになっている気はするが、それなりに大変だった。毎日ブログを更新している糸井重里は半端ないと思う。

 このブログの目指すところは何か、と問われれば、物語作品を観たり読んだりして浮かんだ感想を、誰かと共有したいということに尽きる。小説、評伝、漫画、映画、アニメシリーズ、音楽作品など。形式はなんでもいいが、なんらかの物語作品を鑑賞し、自身の中に生まれる心の動きを共有したかった。「こんな面白い本があったんだけど、、、」という話をする相手がいなかった大学時代の残念な時期の怨念(のようなもの)が年月とともに変質し、現実世界に顕現し具象化したのが、このブログである。

 そして、己のトレーニング。私が
目指していた(今やっている)精神科医、作家、ブックカフェ経営者として、鑑賞した物語作品の紹介や感想の言語化は、最良のトレーニングの一つであると今も昔も信じている。時間や場所や所属する文化圏を超えた多様な物語の蒐集は、精神医学の診療見立てに大いなる力を与える。物語のサンプルの蓄積は、新たな物語を生み出そうとする作家にインスピレーションや手本を与える。ブックカフェ経営者は、文学作品の知識の蓄積が必要なのはいうに及ばない。良質な物語の集積は、臨床家として、創造者として、経営者として、揺るぎないバックボーンになる。人の理を、世の理を、学ぶ手段として、実践可能かつ有効な手段のあるべき姿を探し求め、このブログの形式に辿り着いた

 だいたいそういう感じの意義や雰囲気を直観で感じ取り、人知れず行われる趣味と鍛錬を兼ねた公開練習の場として、このブログは存在している。ラスト1年、活動は加速するかもしれないし、失速するかもしれないし、同じノリで続くかもしれない。同じくらいのペースで、淡々と続けられれば僥倖である。この文章を読んでくれているあなたと、いつか、好きな作品について感想を述べあい、情報交換ができればなお良いだろう。そんな日が来ることを願っている。という気持ちであと1年続く、はずである。
   
   

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