2021年4月24日土曜日

パルプ

 買った本その②。

 無頼のアメリカ人作家チャールズ・ブコウスキーの遺作となった小説である。英語版の初出は1994年、新潮文庫の日本語版は1995年。ブコウスキーを知ったのは、宇宙兄弟の編集者が推していた旅行記を読んでからで、彼の小説を読むのは初めて。とにかく作りの雑さがすごかった。

 主人公はアメリカ、ロサンゼルスの私立探偵ニック・ビレーン。55歳独身、アル中で競馬狂、仕事もプライベートも行き当たりばったりで、行き詰まるとすぐに暴力沙汰になる、弁明の余地など微塵もない、ダメな中年男性である。賃料を滞納した探偵事務所にいる彼の元に不思議な仕事の依頼が来るところから物語が始まり、そこに、死んだはずの実在の作家セリーヌ、超常的な能力を持つ死神、宇宙人などが絡んでくる。

 無茶苦茶な展開をしていく物語だが、決して軽薄ではない、なんともいえない味がある。現世に対する絶望が底にあり、諧謔を交え、小説の型や整合性など気にしない狂気が全編を覆う。世界観としては、なんとなく、カート・ヴォネガット作品に近いように思われる。かつて粗製濫造された大衆小説を意味する「パルプ」という題が示す通り、劣悪なB級娯楽小説という感を隠さず、逆に開き直って図に乗っている感がある。

 本作のハイライトとして、不意に挿入されるダメ人間の主人公の悟りやぼやきが実にいい。むしろ、彼の口を通して語られる儚い達観こそが本編で、小説のストーリーはただのおまけにさえ思える。自由で、劣悪で、読んでいて楽しいのだ。それは、己を痛めつけ、感じたことを書き続けた作家ブコウスキーの魂の表白である。彼の作品には坂口安吾の堕落論に通じる、人間の本質や真実が宿る。

 深く考えずに買った本だったが、期せずして、なかなかいい読書体験になった。こういう本をはさむと、感性の幅が広がるだろう。人間への造詣を深めるための。

・・・

 外に出て、俺はスモッグを物ともせず、ずんずん歩いていった。俺の目は青く、靴は古く、誰も俺を愛していない。だけど俺にはすべきことがある。
 俺はニッキー・ビレーン、私立探偵だ。 p30

 俺は電話を切った。やれやれ。人間なんて地面一センチ一センチを確保しようと苦労するために生まれてくる。苦労するために生まれ、死ぬために生まれる。

 俺はそのことについて考えてみた。そのことについて、じっくり考えた。
 それから椅子の背に寄りかかって、タバコをゆっくり喫いこみ、ほとんど完璧な輪を吹き出した。 p34

 そして次の日の朝になり、オフィスに戻っていったわけだ。自分がまるっきり無用な人間だって気がした。そう、俺は無用な人間だ。この世には何十億という女がいるのに、一人として俺のところには来やしない。なぜか? 俺が負け犬だからだ。何ひとつ解決できない探偵だからだ。 p74

 待っているあいだにハエを四匹殺した。まったく、そこらじゅうに死が転がっている。人間、鳥、獣、爬虫類、齧歯動物、昆虫、魚、みんないつかはかならずやられる。がっちり仕組まれちまってる。どうしたらいいのか。気が滅入ってきた。たとえば、スーパーの袋詰め係を見るとする。そいつは俺が買った食い物を袋に詰めている。と、俺には見えてしまうのだ、そいつが自分の体を、トイレットペーパーやビールや鶏の胸肉と一緒に自分の墓に突っ込んでる姿が。 p93

 ベッドを出て、バスルームに出て行った。ここの鏡を見るのは気が滅入るんだが、とにかく見てみた。憂鬱と敗北が映っていた。目の下に黒っぽい隈が垂れている。臆病者の小さな目、猫につかまったネズミの目だ。筋肉にもまるで張りがない。俺の一部であることが嫌でたまらないみたいに見える。p119


2021年4月22日木曜日

サ道 心と体が「ととのう」サウナの心得


 古本屋で衝動的に買った本①。

 世にサウナブームを起こすことになったエッセイ本の文庫版。単行本版の初出は2011年、文庫版は2016年である。文章メインだが、挿絵も多く、ほぼ漫画の回もある。文庫版ではブーム発生後に描いたあとがき漫画がついている。

 漫画版と同様に、作者がサウナに出会い、はまり込んでいく過程が描かれる。最初に世に出たこのエッセイ版には、漫画版の「サ道」に至る前の、精製されていない原料のような粗さがある。「ととのう」というワードの強調に象徴されるように、漫画版やドラマ版にはビジネスの匂いを感じるというか、編集部や広告会社などの脚色や演出が加わっている。こちらのエッセイ版ではもっと純粋に、新しい世界との出会いと戸惑い、一つずつ謎を解き明かしていく過程の妙味が味わえる。

 水風呂に浸かりすぎのバッドトリップ、サウナ通いが頻回すぎて生じたと疑われる難聴(医学的妥当性は不明)など、ネガティブな話も書いている分、こちらには作者の本音とリアリティがある。作者がひそかに導師(グル)として崇める蒸しZ氏も、エッセイ版の方が深く観察されている。

 疲れた頭でサクッと読むには最適の内容。サウナに行きたくなる。
   

2021年4月20日火曜日

渋江抽斎

 森鴎外が趣味で武鑑(江戸時代の大名や役人の年鑑)を収集していたときに偶然知った無名の士である渋江抽斎(しぶえちゅうさい)に興味を持ち、徹底的に調べあげ、その実像を描き出した史伝(伝記小説)である。初出は大正5年(1916年)、東京日日新聞に連載された。

 渋江抽斎は弘前藩の医官で、文化2年(1805年)出生、安政5年(1858年)没。江戸住まい(定府)として勤める一方で、在野の考証家、書誌学者でもあった。穏和で質素を好む性格ながら、その長い時間をかけて練り上げられた該博な知識や卓見の凄みは、古書に残されたわずかな書き込みからも垣間見え、数十年の時を隔てて文豪・森鴎外の興味を引いた。

 驚くべきは、鴎外のその偏執狂的な情熱である。調査は幕末に生きた渋江抽斎の数世代前に遡り、親類、家族、交友関係、それぞれの生涯や来歴について克明に調べ上げ、
同時代人、大正の世に生きる末裔たちにいたるまで、年代ごとに、淡々と、残された資料や関係者の証言の読み解き、編み上げるようにしてその総体を解き明かしていく。鴎外自身の私見や所感は極力抑えられ、かつて確かに存在した渋江抽斎という人間の、その実像が読み進むごとに浮かび上がっていく仕組みになっている。

 綱淵謙錠の小説もそうだが、こういう文献や資料の考証に重きを置き、歴史的事実に語らせる物語作品には、生半可な創作には出せないリアリティの重厚な味わいが宿る。何より、惚れ込んだ男について徹底的に調べるという営みに興趣がある。どこまで意図したものであったか分からないが、鴎外の丹念で誠実な考証作業についていくと、次第に渋江抽斎や、その関係者たちの人間性が立ち現れ、読後には静かな感動がずっしりと胸の奥に残る。

 大学生の頃に買って挫折した一冊だったが、時間があったので再度挑戦し、読み通すことができた。古い表現が多く、決して簡単に読める本ではないが、苦労して最後まで読むと、他書では得られない比類なき味わいがあった。豊かな読書体験だった。
   

2021年4月17日土曜日

ノマドランド

 2021年公開のアメリカ映画。
 監督は気鋭の中国系女性監督クロエ・ジャオ。

 舞台は2010年代、リーマンショック後のアメリカ。企業破綻による工場の閉鎖に伴い住まいを失った初老女性が、季節労働を求め車上生活をしながらアメリカ国内を放浪する。主人公の女性ファーンを演じるのは『ファーゴ』、『スリー・ビルボード』で2度のアカデミー主演女優賞を獲得したフランシス・マクドーマンド。それ以外の出演者は、ほとんどが実際に放浪する当事者たちだという。

 登場するのは、人生の盛りを過ぎた人々、くたびれた衣服、荒涼とした山野の風景。大志を抱いたり、希望や好奇心を抱いた若者は出てこない。定住せず、車上生活をすることを選んだ中高年の男女の日々が静かに、くすんだ色調で描かれる。彼らは共通して何かを喪い、何かを抱え続けて生きているが、その過程が詳細に説明されることはない。原作はノンフィクションで、アメリカに実在する彼ら、経済危機後に住む場所を失った「現代のノマド」を取り扱っている。

 高城剛氏のメールマガジンで知り、何の気無しに観たが、なかなか味わい深かった。言葉で多くを語らず、表情や光の加減で見せる映画だった。通奏低音は悲しみ、ときどき与えられる喜びの微かな光。年齢を重ねるごとに、いっそう深く味わえるだろう。