2021年4月20日火曜日

渋江抽斎

 森鴎外が趣味で武鑑(江戸時代の大名や役人の年鑑)を収集していたときに偶然知った無名の士である渋江抽斎(しぶえちゅうさい)に興味を持ち、徹底的に調べあげ、その実像を描き出した史伝(伝記小説)である。初出は大正5年(1916年)、東京日日新聞に連載された。

 渋江抽斎は弘前藩の医官で、文化2年(1805年)出生、安政5年(1858年)没。江戸住まい(定府)として勤める一方で、在野の考証家、書誌学者でもあった。穏和で質素を好む性格ながら、その長い時間をかけて練り上げられた該博な知識や卓見の凄みは、古書に残されたわずかな書き込みからも垣間見え、数十年の時を隔てて文豪・森鴎外の興味を引いた。

 驚くべきは、鴎外のその偏執狂的な情熱である。調査は幕末に生きた渋江抽斎の数世代前に遡り、親類、家族、交友関係、それぞれの生涯や来歴について克明に調べ上げ、
同時代人、大正の世に生きる末裔たちにいたるまで、年代ごとに、淡々と、残された資料や関係者の証言の読み解き、編み上げるようにしてその総体を解き明かしていく。鴎外自身の私見や所感は極力抑えられ、かつて確かに存在した渋江抽斎という人間の、その実像が読み進むごとに浮かび上がっていく仕組みになっている。

 綱淵謙錠の小説もそうだが、こういう文献や資料の考証に重きを置き、歴史的事実に語らせる物語作品には、生半可な創作には出せないリアリティの重厚な味わいが宿る。何より、惚れ込んだ男について徹底的に調べるという営みに興趣がある。どこまで意図したものであったか分からないが、鴎外の丹念で誠実な考証作業についていくと、次第に渋江抽斎や、その関係者たちの人間性が立ち現れ、読後には静かな感動がずっしりと胸の奥に残る。

 大学生の頃に買って挫折した一冊だったが、時間があったので再度挑戦し、読み通すことができた。古い表現が多く、決して簡単に読める本ではないが、苦労して最後まで読むと、他書では得られない比類なき味わいがあった。豊かな読書体験だった。
   

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