SF翻訳家、大森望の物語である。いまや日本のSF小説ファンで知らぬ人はいないであろう大御所であり、マルドゥック・アノニマス(今読んでいる)でいうならば、日本SF小説界の交通整理をするロード・キーパーとして、その界隈では尊敬を集める存在である(たぶん)。編集者出身で、英語圏のSF小説の翻訳、解説、アンソロジー編纂、イベントの司会など、幅広く活動しており、軽やかな筆致で作品の要点や楽しみ方を紹介する語り口は職人芸の域にある。バランス感覚がよく、推薦作にハズレがないので、私は昔からひいきにしている。
本書はそんな氏が30歳前後の頃に書いていた連載コラムであり、平成初期のバブル当時の日本の文化風俗を学べる。全体に世の中が浮かれており、連日飲み明かし、麻雀の卓を囲み、カラオケで熱唱し、ドラクエ5やストリートファイターⅡが発売して社会現象になったりする。そんな時代に、日の目を浴びない場所でワープロに向かいながら、黙々と英語から日本語へ翻訳する作業のティップスを、諧謔めいた口調で紹介していく。
万人には薦め難いが、個人的なニーズにはスマッシュヒットした好著である。言葉とは何か、いい文章とは何か、を考える視点を提供してくれる。そして、精神科医の素養として「SF小説」と「翻訳」は押さえておくべき素養だと個人的には考えている。SFは理系と文系の交差点であるという点で精神医学に近く、翻訳は体系の異なる言語から言語へ置き換える作業が、現在症の記述に近い。こういう本を読むと、仕事に深みが出るような気がしている。
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