2021年5月30日日曜日

しんがり 山一證券 最後の12人


 平成10年(1998年)に経営破綻した山一證券に最後まで残り、破綻の原因究明に挑んだ社員たちの戦いを描いた記録である。清武英利著。初出の単行本の刊行は2013年。文庫版は2015年。2014年度講談社ノンフィクション賞受賞。


 百年の伝統を誇り、日本の四大証券会社の一角であった山一證券であるが、平成9年(1997年)11月22日の朝、社員や役員たちも知らされぬまま、突然に自主廃業となることが報じられた。日本中に衝撃が走り、会社中が未曾有の混乱に襲われるさ
なか、会社が3兆円の負債を抱え、2000億円を超える簿外債務が明らかになる。社員たちが沈没船のような会社から次々と逃げ出す状況下、場末の業務監理部門に追いやられていた主人公の嘉本らは、経営破綻の真相究明に乗り出す。

 「しんがり」とは退却する軍の最後尾を担当する部隊(殿軍)のことである。日の目を浴びず、損な役回りであるが、不誠実でモラルが破綻していた旧経営陣が目を逸らし、隠し続けた会社の暗部を日の下に曝し、筋を通すために、心あるごく一部の社員たちが究明を買って出た。粛々と清算業務を続ける会社に残された社員たちとともに、彼らこそが歴史に埋もれた真の英雄である、というのが本書のテーマであろうと思う。

 小説のようであるが、多くのインタビューや取材に基づいており、バブル崩壊前後の平成初期の空気が伝わってくる。世界観が全体的に情緒的で、牧歌的で、非科学的と言おうか、インターネット登場以前の、なんとも言えない時間の流れのゆるやかさがある。そして、
会社という所属する組織を失う人間の悲哀が伝わってくる。『七つの会議』の考察で触れられていたように、かつての日本人にとっては、所属する会社こそがアイデンティティの大きな部分を占める、存在の母体となるコミュニティだったんだろうな、と改めて気付かされる。

 『半沢直樹』のような派手な社内闘争はないが、当時の時代や、現実に戦った人間の記録として、この本には価値がある。
  

2021年5月27日木曜日

林蔵の貌


 北方謙三の時代小説。初出は1996年。電子書籍版をDollyで読了。文庫で上下巻。

 実在の人物である北方の探検家の間宮林蔵(安永9年-天保15年、1780-1840)が主人公である。文化年間(1804-1818)の幕末の樺太や北海道が物語の主な舞台となり、独力での北方の測量やアイヌとの交流を行う生活がベースとなっていた彼の元に、幕府や朝廷や諸藩の陰謀が絡んでくる。孤高に生きる男が時代の荒波に揉まれる物語、と表現して差し支えないと思う。

 長い歳月を酷寒の地で過ごした間宮林蔵の顔貌は凍傷で崩れ、手指は曲がったまま拘縮している。彼は寡黙で、他人と感情を通わせることはほとんどないが、自身が生き抜くためなら、己の手を汚すような苛烈な決断を厭わない侠気がある。作中では苛酷な冬の海上や、山中の厳しい自然と戦う場面が多く登場する。厳寒の地の極限状況で洗練されたライフスタイルは、まさしくハードボイルドである。

 以前読んだ『草莽枯れ行く』や『水滸伝』もそうだが、北方謙三の時代小説は、その定型の「型」に忠実である。装飾的な表現を削ぎ落とした硬質な文体で物語は紡がれ、漢たちが志のために命を賭け、戦い、死ぬ。何作か読むと、展開がある程度読めてくるようになるにもかかわらず、心をとらえる何かがある。本作もそんな物語の一つである。

 形而上学的に仮定された、理想の「男」という存在であろうとする心性。それは普遍的で、時代を超えて人々に何がしかを訴えかける、成熟した価値観であるように思われる。そんな「男」の生き様を描くこと。それが、北方謙三のハードボイルド小説の魅力なのである。
    

2021年5月23日日曜日

俺か、俺以外か ローランドという生き方


 カリスマホスト、ローランドの本。
2019年3月発売。
 ソーシャルスキルとしての対人コミュニケーション能力に関するミニレクチャーを担当する機会があり、役に立ちそうなので読んでみた。読んだのはKindle版。

 ローランドに注目しはじめたのは去年くらいだったか。
 面白くて、格好良くて、周りを幸せにする、コミュニケーション強者であるローランドの立ち居振る舞いは、公私にわたり参考にしている。

 ローランド、何がいいんだろう。
 自己評価が高い人は、それだけでエンターテイメントになるということ。本人もそれを自覚していて、意識的にキャラクターを演じている。それがホストという職業の役割であり、彼はそれを理解している。ローランドのファンの大部分は、自分に自信を持てない人なんだろうと思われる
。自分を大切にし、愛し、特別視している彼を見ることで(ローランドは五感で味わうべきだそうだが)、その自己肯定感を追体験できるんだろうと思う。ああ、自分を大切にしてもいいんだ、という気づきを得る人は多いだろう。

 そして、軽薄なようでいて、芯があるということ。
 彼の「名言」に凝縮された人生哲学には、人が幸せになるためのメンタリティとして、普遍的な価値がある。個人的に好きなのは、「Noを言えない人間のYesに価値はない」「男が誰を尊敬するのかは自分で決める」あたり。高校卒業までサッカーをガチでやっていたり、名実ともに歌舞伎町No.1ホストになるという目標を実現したり、真剣に戦い抜いた人間が持つ経験や思弁の蓄積がある。そんな彼の言葉には、深みや含蓄がある。それを、あえて軽く見えるように出している。それが彼のプロフェッショナリズムである。

 精神科医療者として、彼に学ぶべきものはなんだろう。
 自尊感情の高さは、目の前の相手や周囲に伝播し、人に幸福感を与える効果があること。清潔感、容姿、ユーモア、優しさ、誠実さの大事さ。際限のない甘やかしや妥協は自身にも相手のためにもならないこと、など。病棟のスタッフに1人ローランドがいれば、圧倒的な戦力になるだろう。患者を癒やし、現場の士気を高め、関わった全員が大切な何かに気づくはずだ。

 なかなか学ぶべきことが多い本だった。これからも、彼に多くを学ぶだろう。
   
   


2021年5月15日土曜日

新編 SF翻訳講座


 1989年(平成元年)から1995年(平成7年)にかけてSFマガジンに連載されていたコラムである『SF翻訳講座』の書籍化。読んだのは2012年の河出文庫版。

 SF翻訳家、大森望の物語である。いまや日本のSF小説ファンで知らぬ人はいないであろう大御所であり、マルドゥック・アノニマス(今読んでいる)でいうならば、日本SF小説界の交通整理をするロード・キーパーとして、その界隈では尊敬を集める存在である(たぶん)。編集者出身で、英語圏のSF小説の翻訳、解説、アンソロジー編纂、イベントの司会など、幅広く活動しており、軽やかな筆致で作品の要点や楽しみ方を紹介する語り口は職人芸の域にある。バランス感覚がよく、推薦作にハズレがないので、私は昔からひいきにしている。
 
 本書はそんな氏が30歳前後の頃に書いていた連載コラムであり、平成初期のバブル当時の日本の文化風俗を学べる。全体に世の中が浮かれており、連日飲み明かし、麻雀の卓を囲み、カラオケで熱唱し、ドラクエ5やストリートファイターⅡが発売して社会現象になったりする。そんな時代に、日の目を浴びない場所でワープロに向かいながら、黙々と英語から日本語へ翻訳する作業のティップスを、諧謔めいた口調で紹介していく。

 万人には薦め難いが、個人的なニーズにはスマッシュヒットした好著である。言葉とは何か、いい文章とは何か、を考える視点を提供してくれる。そして、精神科医の素養として「SF小説」と「翻訳」は押さえておくべき素養だと個人的には考えている。SFは理系と文系の交差点であるという点で精神医学に近く、翻訳は体系の異なる言語から言語へ置き換える作業が、現在症の記述に近い。こういう本を読むと、仕事に深みが出るような気がしている。
   

2021年5月4日火曜日

地下室の手記


 ドストエフスキー作品。ロシア語の原作は1864年に初出。
 読んだのは新潮文庫の江川卓訳。1969年(昭和44年)版。

 孤独で自意識過剰な40代の男の手記という体裁をとった小説である。長年にわたり醸成された自身の考えを披瀝する前半(地下室)と、知人や娼婦とのあいだに起きた具体的なエピソードを語る後半部分(ぼた雪に寄せて)に分かれる。ボリュームは控えめで、中編小説程度の長さである。

 個人的には後半の展開が胸に突き刺さり、ドストエフスキー作品では上位にランクイン。男は卑屈な元役人であり、人とうまく交われず、孤独な「地下室」(比喩表現)にこもって生きる人間である。自意識過剰で、自暴自棄で、観念にとらわれ、屈辱的な記憶を
反芻し続けて強化し、無尽蔵に自身や他人への蔑みや憎しみを生み出し続ける。太宰治の『人間失格』を読んで自分のことが書いてあると衝撃を受けるのに近い感じで、この『地下室の手記』に己を重ねる若者は多そうだ。世界中でしばしばみられる、ある日突然、凶悪犯罪を起こす引きこもり男性に近い心理だと思われる。

 この苦しさや悲しみは『最強伝説黒沢』が近いと思った。黒沢は2000年代の日本の土方、本作の主人公は1860年頃のロシアの知識階級という違いはあるが、不器用で自意識過剰で孤独な中年男、というあたりが通じる。結局は、社会に馴染めず、孤独をこじらせ、過去の失敗の記憶が毒となって、精神を蝕み続ける地獄にいる。それは時代や場所を超えて、普遍的に見られる現象なんだろう。地球上、あらゆる地域に、数えきれぬほど似たような中年男性がいる。

 彼を救うことができるのは何か。それはきっと女性的な愛のようなものなんだろう、ということが後半の娼婦とのエピソードから見て取れる。ドストエフスキーの『罪と罰』の発想の萌芽はここにあるんだろう。その苦しみと救いは、その後の作品郡の中で重要なモチーフとなり、形を変えて描かれ続ける。

 観念にとらわれ、俗悪な衆生に交われぬ地獄。似たような境遇にいた、かつての自分を重ねて読んだ。なかなかいい読書体験だった。
   

2021年5月3日月曜日

 
 綱淵謙錠の小説。初出は1975年(昭和50年)。
 読んだのは2011年に出版された文春文庫版。
 10年ぶりくらいに再読。

 元禄時代(1700年頃)から明治12年(1879年)の廃刑に至るまで、250年以上、7代にわたり、死刑囚の斬首を家業としていた山田浅右衛門(やまだあさえもん)の一族の物語である。明治に入り、社会変革の激動と混乱の時代に生きる吉亮(よしふさ)が主人公で、史実に基づき、彼の目から見た一族の運命が描かれる。

 綱淵謙錠らしい精緻な文献考証の合間に小説的な物語が挿入される構成であり、リアリズムの深い味わいが残る。物語は多層的で、社会風俗の記録、歴史物語、恋愛的要素など、いくつもの視点から味わえる。とりわけ、社会の変革の中で、家業を失い、誇りを奪われ、先が見えず、心に傷を負って滅びゆく一族を描いた悲運の物語として堪能したい。斬首という非人間的な仕事に携わる人々の心理についても示唆するところが多く、文学的情緒に富んでいる。その一端については、本文中の下記の文章を参照されたい。

 歴史的転換点において、時勢に翻弄される人々を描くという点で普遍性を持つ物語である。コロナ禍やITの隆盛で大きな社会変革が起きている、2021年の今読むにふさわしい小説だろう。重厚な物語であり、お気に入りの一冊である。

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 斬首ということは無機物を機械的に斬るのではなく、人間が人間を斬るのであるから、斬る人間と斬られる人間とのあいだに一つ一つの場合でそれぞれ異なった心理的触れ合いが生じるのである。したがってつねに偶発性をともなって斬り手の心理なり感覚を揺り動かす事件が絶えない。それにたいする抵抗素がいくらできていたとしても、その衝撃はいつまでも尾を曳いて残るものであり、そもそもが人間としての反自然的行為なのであるから疲労となって神経を昂ぶらせる。とくに多量の血を見ることは本能の最も奥深いところにあるものを刺戟するらしく、生臭い血の匂いに触発されて、斬り手の全身を酩酊させる。それを〈血に酔う〉と言っている。 
本文 p181