江戸時代の実在の人物、渋川晴海(しぶかわはるみ)が主人公の時代小説である。碁打ちの家系に生まれ、算術を愛し、神道を重んじる人物が、改暦という幕府や朝廷を揺るがす大事業に挑む。4代家綱から5代綱吉(西暦1660年〜1700年頃)の江戸が舞台で、同時代人である本因坊道策、関孝和、山崎闇斎、水戸光圀、保科正之などが登場する。
さほど有名ではなかったこの人物を見つけ出し、とことん惚れ込んで、時代小説の主人公として取り上げたという事実が、冲方丁の精神性の本質を現しているように思われる。途方もなく大きなスケールの課題に全身全霊で挑み、事を成そうとするメンタリティ。挫折しても立ち直り、嫌なやつにならず、ひたむきに、一生懸命に、己の命を人の世の輝きのために捧げる創造性とサービス精神。本作の渋川晴海は冲方丁の理想の人間像の投影である。もうひとつの理想は、冴えた知性と猛る野性を併せ持つ水戸光圀であろう(そちらは『光圀伝』で描かれる)。
時代小説の枠組みの中で、理系のロマンを追求する作品でもある。作中に出てくる解けそうでなかなか解けない図形の問題などの仕掛けも楽しい。囲碁、算術、天文学など、芸術の域にまで高められた理論の真剣勝負へのリスペクトが読んでいて心地よい。算額絵馬や私塾での数学バトルを楽しむ江戸の庶民の暮らしぶりからも、洗練された町の空気が伝わってくる。
今読むと、人物の描写はライトノベル感があって少し鼻についたが、それもまた作者のサービス精神の発露であろうと思う。読むと力が湧いてくる、何かに全力で挑みたくなる、エネルギーを秘めた作品である。大学生の頃に読めたことに感謝したい。
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