2016年5月29日日曜日

冷たい熱帯魚


 実在の事件(埼玉愛犬家殺人事件)をモデルに園子温が映画化。小さな熱帯魚屋を営む冴えない中年男が、偶然出会った陽気な男に取り込まれ、陰惨な猟奇犯罪に巻き込まれる。

 主犯格の男(役名は村田)のサイコパスな振る舞いの演技が秀逸。表面上の快活さと威圧の使い分けで精神的奴隷を生み出す手法は、北九州の連続殺人の犯人(松永太)を想起させる。精力的な振る舞い、キレのある弁舌、理解を示す態度と暴力の緩急、ボディタッチ、ユーモア、性的な貶め、共犯者に仕立てる、など、細かなテクニックの表現と、悪びれない役者の演技がかなりそれっぽい。

 近い作品として思い出したのが『ファイトクラブ』と『ファーゴ』。前者は現実社会に屈服し抑圧された男が潜在的に抱いていた暴力・支配・性的放縦への憧れが象徴的人物として目の前に出現する。後者はイケてない人達の社会に潜む陰惨な暴力衝動の現実化。『ウシジマくん』も似たようなもんか。

 露骨な性描写や、死体の解体などキツいシーンが多いのでR-18指定は納得。観る人は選ぶだろう。モデルとなった事件も調べる程に怖い。それでも、エログロで下品なだけの娯楽ではない。目を背けたくなるような惨劇の中に、ある種の人間の真実は光る。残虐な男、狂った女の抗いがたい原始的な魅力には、日常で見失いがちな普遍の人間真理が宿っている。
   

2016年5月25日水曜日

でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相


 こういう種類の悪があることは、若いうちに知っておいた方がいい。

 2003年、福岡の小学校の40代の男性教師が、特定の生徒の男児に対し自殺を強要したり凄惨な暴力を繰り返したとして、教育委員会により日本で初めての「教師によるいじめ」と認定され、新聞や週刊誌などで大々的に報道された。しかしその裁判の過程で、男児と家族と訴えはほとんどが嘘であると暴かれていき…という内容。

 真相はタイトル通り、ただの「でっちあげ」なんだが、偶然この本の作者が調査して出版しなければ真実は闇に葬らていた可能性があること、標的に選ばれてしまうと被害は不可避であること、など、状況を考える程に戦慄する。自分が潔白ならば大丈夫、なんて甘い考えで、無尽蔵の憎しみをたぎらせて罪を捏造し拡散していくモンスターによって、無実の善良な市民が理不尽に社会から抹殺されてしまうことがある。

 空虚な悪、とでもいおうか。息を吐くように嘘をつき、個人としての信条や行動の一貫性を欠き、他人を攻撃し続ける人間がいる。クレーマー、サイコパス、モンスターペアレンツ、モンスターペイシェント、いじめが好きな人、モラハラDV、演技性人格障害…etc. その表現形は様々だが根は同じで、自身の内面の貧しさや醜さから目を背けるための、空疎で他責的なパーソナリティーによる自己防衛の手段なのだと思う。

 本ブログ筆者はそういう手合いに幼少期より何度も標的にされ、悪役のレッテルを貼られることに関しては日本有数の経験値を持つ自信があるため、読んでいて何度も転移感情に苛まれた。奴らはそんなに多くない、が、一定数はいる。その特性を知らずに標的にされ、つけ込まれると、深く評判を傷つけられ、人生の大切な一時期が奪われてしまう可能性がある。

 筆者なりの対策は「仲間を作り孤立しないこと」「奴らの手口を知ること」「時には毅然として主張すること」だろうか。「イケてる人になること(集団内での社会的地位が高い人になること)」が自己防衛の手段として有効であることを最近発見しつつある。

 韓国の従軍慰安婦、子宮頸癌ワクチンの被害を訴える団体の人もそれっぽい。面倒くさい嘘つきに絡まれたときの対策は、楽しく生きるための重要事項であろう。
     

2016年5月23日月曜日

クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか


 アメリカ発の精神医学の概念がいかにして他国に浸透し影響を及ぼしたか、という文化汚染に関するノンフィクション。香港の摂食障害、スリランカの津波とPTSD、ザンジバル(アフリカの小島)の統合失調症、日本の抗うつ薬市場の話の4編が主に取り上げられる。

 本書に紹介される事例のうち、日本人の身近に影響を及ぼしたのは1995年の阪神大震災後に浸透したPTSDの概念と、バブル崩壊後の1990年代後半以降に爆発的に広がったうつ病の話だろう。英米から押し寄せる狂信的で独善的な専門家(主に精神医学と心理学)とモラルに欠ける商売人(製薬会社)のゴリ押しが伝統的な文化的資源を破壊し、社会を変容させ、その構成員が実験用のモルモットや企業の食いものにされる構図は知れば知るほど醜悪で、読み続けていると腹が立ってくる。

 精神科の医師でもある本ブログ筆者の臨床場面における所感として、いつも脳裏をよぎるのは「なんでもかんでも病気にするんじゃねえ!」という不満である。最近だとADHDと発達障害が顕著。「ネットで見たんですけど」といってやってくる若者多数。イーライリリー社あたりの広告でよくみるあれだが、あれは会社が薬を売りたいだけだということを本ブログ筆者には知っておいてほしいものである。宣伝されるほど実社会にいないよね、あれ。

 結論として、いきすぎた資本主義経済の利益追求と、傲慢で視野の狭い研究者の名誉欲が、世界中の人々に精神疾患のレッテルを貼りまくっている。「あれ、剥がすの大変なんだっつーの」というのが臨床家としての筆者の日々の心の叫びである。

 アレン・フランセス『〈正常〉を救え』と併せて、是非。
   
   

2016年5月20日金曜日

春の雪


 三島由紀夫の代表作の一つ。明治の貴族の悲恋の話。

 侯爵の父を持つ華族の家柄に生まれ、生まれながらの美貌を持ち、倦怠と傲慢を抱えて生きる18歳の青年である松枝清顕(まつがえ きよあき)が主人公。幼馴染みである女(聡子)と互いに複雑な想いを抱いていたが、聡子が皇族と婚姻関係を結ぶことになり…というのが筋。

 圧巻なのは日本語の美しさ。繊細で、重厚で、華がある。会話や生活様式など、明治の貴族階級が生きた時代の一つの記録となっている。こういう文学をじっくり読むと日本語の力が間違いなく上がるだろう。純粋な日本語で構築された物語世界は絢爛で、豊穰で、濃厚である。日本語の文化圏を発展させ、後世にミームを伝えていく、まさしく国の宝である。

 基本的に清顕は性格のひん曲がったナルシストだが、後世の様々な作品の登場人物に影響を与えた鋳型となっているような印象。本作品は1965年の発表で、その後の少女漫画に出てくる性格の悪い王子様のキャラクターの典型像であるように思う(『花より男子』の花沢類と道明寺を足したような感じ)。儚さと退廃的なムードをたたえ、純粋な悪に近いがゆえに美しさが際立つ。

 本作品は『豊穰の海』4部作の1作目である。独立した作品としての読後感も十分だが、続きもそのうち読んでみたい。豊かな気持ちになる。
  

2016年5月15日日曜日

ジョジョの奇妙な冒険 Part 6 ストーンオーシャン


 シリーズ初の女性主人公が刑務所を脱獄する話。

 特筆すべきは空条承太郎の存在感。主人公の徐倫(ジョリーン)の父親として登場し、決して登場場面が多いわけではないが、そのワンシーンワンシーンが圧倒的に格好いい。知性と品位が漂い、本当に強い男に宿る優しさがある。すれ違いながらも互いを想う父と娘の絆もいい。第四部でもそうだったが、シリーズの最重要人物であるのは間違いない。

 筆者個人の好みの問題として、絵柄は好きだが設定は好きじゃないというジョジョ全般に当てはまる傾向を確認。音楽やファッションブランドからとった人物やスタンドの名前(エルメェス、フーファイターズ…etc.)とか、衒学的な科学理論の援用の仕方は、なんというか、理解の浅さが透けて見えるせいか、垢抜けない感じがして好きになれない。文庫の表紙や巻頭のカラーなど、絵柄は最強に格好いいと思うんだが。

 ジョジョワールドは独特の世界観を持つ一つの文化であり、教養として持っていると多くの人との会話が弾むんだろう、とは思う。一部から六部まで通読した感想として、筆者個人的にはあんまりのめり込める作品ではないと実感したが、シリーズ全体から溢れるある種の豊穰さは感じた。説明臭さや作者の作為を隠しきれないあたりが難点。でもまあその辺の粗雑さが魅力ともいえるので何とも言えないか。今度誰かに意見を聞いてみたい。
   

2016年5月14日土曜日

無慈悲な8bit


 『岡崎に捧ぐ』の作者がファミ通に連載しているテレビゲームを題材としたコミックエッセイ。

 本ブログ筆者と同い年(たぶん1985年生まれ)なので、小学生の頃のゲームの思い出話など自身の体験とオーバーラップする内容が多い。「FFと比べてドラクエは子供っぽいと見下してやってなかったことを後悔する話」「母親がスーファミのコンセントのアダプタを隠す話」とかドンピシャで、当時(90年代)の少年少女の皮膚感覚がありありと思い出され、懐かしさが込み上げてくる。

 最近のネットRPGやFPS(主人公目線のアクション系をこういうらしい)は今も縁遠いと思っているが、スーファミのゲームを再びやりたいなーという気分が読んでいて再燃。ロマサガ2とかヨッシーアイランドとかやりたい。あとマザーシリーズ。

 個人的には、作者(女性)が東京の中の下くらいの社会階層で生きている感じの生活感が好感(失礼)。
   

2016年5月5日木曜日

戦場のピアニスト


 ユダヤ人のピアニストがナチスドイツに迫害される話。

 歴史的事実に基づいた悲劇を美しい映像と音楽で再現。これといった特徴はないが、変に脚色せず全編を丹精に作り上げた感じが好感。展開のテンポの良さと主張しすぎない表現のおかげか、観ていてストレスを感じさせない。ありきたりではあるが、「どうして人はここまで残酷になれるのか」「極限状態で人はどう生きることができるか」という、『夜と霧』を読んだ時と同じような物思いに耽ることができる。

 戦時の記録としての歴史的な史料である側面が大きい。ピアノに詳しいともっと楽しめるんだろう。悲しく、美しく、優等生な作品。
    

2016年5月4日水曜日

俺だって子供だ!


 脚本家・宮藤官九郎の子育てエッセイ。

 週刊文春で連載されていた第一子であるかんぱちゃん(女児)の誕生前から3歳になるまでの連載を単行本にしたもの。芸能系の固有名詞の散発、ユルい口調と冴えた考察の緩急、あけすけな下品さと温かな人情味の両立、など、ドラマや映画でお馴染みのクドカン節は健在。表紙をはじめ、我が家もお世話になってる絵本作家せなけいこ氏(『いやだいやだ』『ねないこだれだ』など)のフィーチャーぶりもいいセンス。

 脚本家、映画監督、俳優業、バンド活動をこなす宮藤官九郎は膨大な情報とめまぐるしい時代の変化に暴露されながら生きる東京人の急先鋒だと思うんだが、そんな彼が抱く等身大の父親としての愛情と諦観の感覚、その味わいは何ものにも代え難く、一見考えなしに書き散らしているようで強烈で普遍的な個性と魅力がある。

 過剰な自己陶酔に至らず、かといって無関心や無責任なわけでは決してない、自省による制御の効いた等身大の歓びがある。全国紙の出版なのにお父さんのAV鑑賞の事情を混ぜてくるあたり絶妙なバランス感覚を発揮している(いいのか?)。大人になってこの本を読むかんぱちゃんは、円熟した人間観をもつ一筋縄ではいかない成人女性になるだろう。

 個人的には、自分の娘の成長過程と8割がたオーバーラップして感慨深かった。どこも似たようなことで一喜一憂するんだな、という確認になった。状況は違えど、子を持つ親の気持ちは概ね似たようなもんになるらしい。

 何より軽やかで楽しそう。それが一番大事。
   

2016年5月2日月曜日

セブン・イヤーズ・イン・チベット


 オーストリア人の登山家がチベットに辿り着き、若きダライ・ラマ14世と過ごす話。原作は実在の登山家ハインリヒ・ハラーの手記。1997年の作品。

 第二次世界大戦中の世界情勢など歴史的な背景を舞台装置としつつ、主題には西洋的価値観(上昇志向、傲岸不遜、対他配慮の欠如)のもとで人生に立ち行かず傷ついた若者が仏教的世界に出逢うことで救済と成熟を得るという東洋哲学への憧れが見て取れる。ビートルズ然り、ジョブズ然り、『食べて、祈って、恋をして』然り、西洋人の辿りがちな転帰のちょっとしたステレオタイプではあるが、20世紀の後半には多くの欧米人がオリエンタルな世界の中に神秘と救済の可能性を見出したんだろう。

 映画としては、登山ルックの若きブラッド・ピットの佇まいが最高に格好いい。『神々の山嶺』で読んだようなヒマラヤ山脈の峻厳な高山地帯の映像もいい。泥と埃にまみれた街に生きるアジア人と、金髪碧眼の白人のコントラストが象徴的。受賞と無縁なのは中国共産党に関係者がビビったからか(ブラピは中国に無期限入国禁止になったらしい)。

 高校生の時に1度観た映画だったが、全然覚えていなかった。当時は深く意味を理解できなかったんだろう。チベット弾圧の歴史を知り、結婚などのライフイベントを経てから観ると、胸に響き、残るものがある。30代で観ると楽しめる映画と思われる。